子どもオンブズ・コラム令和4年1月号 保護犬と過ごした日々

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ページ番号1014701  更新日 令和4年1月17日 印刷 

保護犬と過ごした日々

北村イラスト
北村相談員のイラスト

 犬が死んだ。17年と8カ月、一緒に暮らしてきた犬が死んだ。2021年の終わりに近い月曜日の未明のことだった。

 2004年4月、わが家は生後約6カ月の犬を迎え入れた。生まれたのがいつなのかはっきりと分からない犬である。母犬と子犬3匹が山中でうろついていたのを保護されたそうで、家にやってきたのはその子犬のうちの1匹である。今ではよく耳にするようになった、いわゆる保護犬である。

 大きな黒い目、真っ黒の鼻、背中の毛は茶色、胸から腹にかけての毛は真っ白、長い四肢、大きくピンと立った耳。少し柴犬に似てはいるが、何がどのように混ざったのかわからない正真正銘の雑種の雄である。はじめボランティア団体に引き取られ、そこで数か月、家庭の一員に受け入れられるようにと、しっかり訓練を受けてきていた。排泄は決まった場所に置かれたペットシートの上でするし、家族が食事をしているときは、じっと足元にうずくまって自分の食事の番が来るのを待っている。電気コードにじゃれたりしないし、食卓や椅子の脚を噛んで傷をつけることもない。エサを食べている最中にエサ皿に手を入れても怒らない。手から食べ物をもらうときも、少しでも自分の歯が人の手に触れると急いで口を遠ざける。無駄吠えもしないし、かまってくれと纏わりついたりもしない。手のかからない、よく躾された子だった。

 しかし、困ったことがあった。臆病なのである。それも、超が付くほどの臆病である。まず、新聞紙が嫌いだった。新聞を読もうと手に取って広げると、それを見た途端慌ててどこかに隠れようとする。次に、段ボールの箱。届いた荷物を抱えて運んでいると、やはりバタバタと机の下などに潜り込む。いったいどうして、こんなにも新聞紙や段ボールの箱が怖いのか、犬に聞いてみたくても、答えてくれるわけもない。野犬であったころに新聞紙のようなもので叩かれたことがあったのだろうか。段ボールの箱に入れられて、捨てられたのだろうか。どうしてそんなに怖いの?と話しかけても、彼は不安そうな目で私の目をじっと見つめるだけである。そう言えば、紙袋も嫌いだった。大きな紙袋を手にして買い物から帰ってくると、やはり怯えた表情になり,おどおどしてしまう。

 もし、彼が言葉を持っていたならば、新聞紙や段ボールが嫌いな理由を話してくれただろうか。たとえ言葉を持っていたとしても、うまく言葉で伝えることはできたのだろうか。彼がこのような反応をするのには、何か訳があるはずである。どのような経験があったのであろうか。もの言わぬ動物であるが故、なおさら私たち人間が色々想像を巡らせて彼の不安を取り除いてやらなければならない。でも具体的にどうしてやったらよいのかわからない。

 一番困ったのは、散歩嫌いである。犬は散歩が大好き、というのが私たちが持っている常識であった。ところが、彼はリードをつけられたとたん頑として立ち上がろうとしない。腰を落とし四肢を突っ張って抵抗する。仕方がないので、しばらく抱いて歩くことになる。小型犬ではないので、はたから見ると少し変わった散歩風景である。実際、「どうしたのですか?」と聞かれたことも一度や二度ではない。ここでも私は考えてしまう。どうしてそんなに散歩が嫌いなの?もしかしたら、また捨てられると思ってる?家の外は嫌なことが起こる場所と思ってる?ボランティアに世話されていた生後数か月の間、彼は他の犬たちと一緒に育てられたため、犬仲間との社会性をしっかりと身につけていた。わが家の前を散歩で行き来する犬や、ご近所の犬とは誰とでも仲良くなれた。とにかく犬に好かれる犬だった。彼は飼い主の私たちよりも顔が広かった。どうして散歩に出ることを嫌がったのか、知りたくても知る方法もない。

 彼が保護されるまでどのように生きてきたのか、どんなことがあったのか、だれも知らない月日があるから余計にその空白が気になる。いくら問いかけても、返ってくる答えはない。私たちにできるのは、彼が経験してきたことを想像しながら、彼が感じている不安や恐怖が少しでも和らぐように、日々愛情をかけて一緒に生活することぐらいであった。

 成長するとともに、次第に新聞紙や大きな箱への恐怖を忘れていった。家の中にいる限り、怖くてパニックになることも少なくなってきた。安心して生活することができると感じてくれるようになったからだろうか。あるいは単に歳とともに慣れていったからだろうか。ところが、10年近くたっても散歩は相変わらず嫌いであった。「散歩に行こう。」と声をかけると、尻尾を脚の間に巻き込んでリビングの隅に引っ込んでしまう。どうにか連れ出しても、家が見えなくなるところまで抱いて歩かなければならない。こんな事情もあって、一人で散歩に連れ出すことは難しかった。彼がこれほど散歩を拒否するのはなぜなのだろうか。確かに車を怖がった。特にバスや宅配の車が近くを通るとパニックになった。もしかしたら車に乗せられ、山中に捨てられたのだろうか、と考えたりもした。少しでも散歩は楽しいと思わせるため、あまり車の通らない道を、夫や娘と一緒に彼のペースに合わせて散歩するようにした。散歩中の犬にできるだけ会うことができるように、出かける時間も考えた。私たちの努力の結果かどうかは分からないが、10年以上経ってようやく抱いて散歩する必要がなくなった。少しずつ足取りも軽く、散歩を楽しむことができるようになった。しかし、克服するのにこれほど長い年月を必要としなければならない強い恐怖心は、どのよう植え付けられたものなのだろうか。

 一緒に暮らした最初の10年は、「どうしてそんなに怖いの?」「何があったの?」と問いかけながら、彼がわが家に来るまで経験したことに色々と思いめぐらせることが多かった。決して答えを得ることはできないが、その原因となる出来事がどこかにあったはずだと思っている。言葉を使って理屈で理解することのできる人間の場合は、ずいぶん状況が異なるとは思う。しかし、人の言動を見て、その人が今までに生きてきた道のりがどのようなものだったのかを意識するようになった。どうしてそのような考え方をするのだろうか。どうしてそのような行動をとるのだろうか。おそらく、それまで経験してきたことの積み重ねが大きく影響しているのだろう。そう考えると、少し違和感を覚える人の発言や行動も理解できる気がする。

 仕事が終わって駅から家への帰り道、気になるのは家で待っている彼のことだった。どうしているかな、お腹を空かしているだろうな、早く帰ってやらなくちゃ、と。夕刻暗くなってくると彼はカーテンの隙間から顔を出し、私が帰ってくる道の方をじっと見つめて待っている。今はもう、その大きな黒い瞳と目が合うことはない。

執筆:相談員 北村 寿江子(きたちゃん)

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