子どもオンブズ・コラム平成28年1月号 「阪神大震災後に生まれた」震災を知らない世代の成人式

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ページ番号1001690  更新日 平成30年8月3日 印刷 

“阪神大震災後に生まれた” 震災を知らない世代の成人式

生田専門員の似顔絵
似顔絵:生田専門員

 今年の成人の日、1月11日、成人式に参列する機会がありました。成人式に該当した若者は、阪神・淡路大震災のあった1995(平成7)年度に誕生をした若者たちでした。早や21年の年月の流れを感じながら、時間の経過とともに忘却の彼方へと去っていくのではないかと内心おもうことがありましたが、5年前には未曾有の東日本の大震災があり、火山の噴火、異常気象に伴う豪雨等々の諸現象のなかでの自然災害が多発しています。

 阪神・淡路大震災では、尊い多くの命が失われた事実をいつまでも忘れることなく、振り返ってみました。21年前の1995(平成7)年1月17日、自宅2階で早朝、ドドーと突き上げるような揺れを感じたと思った直後、テレビは枕元に吹っ飛び、1階の各部屋は食器類等の散乱でした。自宅は西宮の六甲山北部でしたので被害は甚大ではなかったですが。
 宝塚で母と弟家族全員が全壊した家屋の中で下敷きになっているとはつゆ知らず、あわてて職場に出かけました。職場では被害対応に追われていた中、昼前に中学3年生の姪(Yちゃん)の死亡の連絡を受け、大変な状況になっていて、探し求めたすえ収容されている地域の共同施設にたどり着いた。まだまだこれからの夢多かったのに。無念だったろう。怖かっただろう。寂しかっただろうと。

 当時の読売新聞(平成7年3月6日)で、「帰らない愛しい人への鎮魂と、彼らを育んだ街の復興への誓にと。3月5日、宝塚市の阪神・淡路大震災の犠牲者合同慰霊祭。癒えない悲しみを胸に参列した遺族に、また涙が流れた。」との記事の中に、Yちゃんの母Jさん(私の義妹)の以下のようなコメントが掲載されていました。

 『落ちてきた天井のはりで圧死。難を逃れた77歳の祖母は「ドスンと落ちた瞬間、Yちゃんとさけんだけど、ひと声もなかった。80歳近い私が生きて、末永いこの子が」。地震前日に受けた模擬試験の結果が最近、返送されてきた。母のJさんは、「公立高校めざして、一生懸命勉強してました。もし生きていたら、と悔やまれます。13日は中学の卒業式で、学校から案内が届きましたが、出られません。つらいです。』

 また、震災10年後の市の追悼行事の様子が、当時の神戸新聞記事(平成17年1月17日)の中でさまざまな追悼行事が催されたときの記事の中に、次のようなYちゃんの父Mさん(私の弟)の様子が記載の部分がありました。

『白いキクを手に碑の前に立った。震災で木造2階建ての自宅は全壊。自身もしばらくの間、記憶が途絶えた。がれきの中を自力ではい出し、家族の名前を叫んだ。1階で寝ていた中学三年の二女(当時15歳)だけ声が聞こえなかった。「おばあちゃんの世話をする優しい子。みんなに愛されていた。英語が得意でね。震災の数日後に英検の合格通知がきて、がんばってたんやな」と声を詰まらせた。』

 21年前の震災当時における慰霊祭時の義妹のコメント記事、そして11年前の追悼行事時の弟のコメント記事を読みながら、今では35歳であろうが、震災で15歳で散った無念の姪の思いと、同時に両親のやるせない心情の一端を振り返りながら、「生きることの大切さ」と「日々新の気持ち」で人生を歩んでほしいとの思いを、一つの節目である震災の年に生まれた若者の成人式に参列して、改めて願った。

執筆:専門員・生田收(いくたおさむ)

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