子どもオンブズ・コラム平成27年9月号 正しい道なんて、人それぞれ

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ページ番号1001694  更新日 平成31年1月24日 印刷 

正しい道なんて、人それぞれ

村上相談員の似顔絵
似顔絵:村上相談員

 この時期になると、「進路」なんていう言葉がにわかに騒がしくなってくる。オンブズで出会う子ども・おとな、いろんな人と、「進路」について話す機会も増える。

 あなたは何になりたいですか? 将来の夢は? 将来設計は?

 平々凡々な家に育ち、内弁慶でボーっとしていた私。中3になり、将来についてなんていう話を学校で聞かれるようになり、たじろいだ。シャイな私にとって、担任との進路相談では正直に言えない、現実離れした憧れの職業はあった。でも、どうやってそこにいけるのかは全く分からなかったし、まだ先のことと思っていた。一方で、有名なスポーツ選手や芸能人は、15くらいの時に、その夢に向かって飛び込んでいったなんて話。そう聞くと、言いようのない不安感。「私の夢は?」「私はほんまは何がしたいの?」早く将来設計をしないと乗り遅れる。でも、とてつもなく現実離れした憧れ以外は思いつかないし、どうしたらいいんだろう。ちゃんとしなきゃ、でも分からない。
 高校を卒業する時、憧れの道に進もうとして、東京にある大学に行きたいと、これまたフワフワ宙に浮いた話を母にして、あっさり却下されてしまった。ひとまず、野望は胸に(?)、もう少し現実的な進路選択をしたけれど、ずっと「進路」と「将来の夢」という言葉に捕らわれて、言葉にできない焦りや不安があったように思う。きっとけっこういいおとなになるまで、そんな感じでモヤモヤしたままだった。もちろん、その間にもいろんな出会いをして、歩を進めてきたのだけれど。

 父は団塊の世代。「イケイケどんどん」で進んできた仕事人間。「終身雇用」や「大手企業」の信奉者。私のためを思って、それが正しい道だと伝えてくれていた。そんな父に、反抗しまくった思春期時代。でも一方で、その価値観はかなり一般的で広く社会にも蔓延していたし、どこかで私にも影響していたように思う。
 かなり遅いのだけれど、元来のんびり屋の私は、ようやく今頃になって、自分が大切に感じていたパーツパーツが繋がって、自分の価値観にあった仕事にたどりついたように思う。もちろん、それで全て安泰、ノープロブレムってわけじゃないけれど。
 中3の頃からオロオロし出し、今頃になってようやくその不安から少し離れて、自分の見方が出来るようになるまでには、もちろんたくさんの出会いと、そこからくるカルチャーショック、そして紆余曲折があった。前置きが長くなってしまったけれど、ここでそれらの出会いのいくつかを紹介したい。

 カナダ留学時代に、お手伝いさせてもらったメープルシロップ売りのオーナー。青空市場でメープルシロップやその関連商品を売るそのおじさんは、茶目っ気たっぷりで、いつも悪ふざけしているような人。寒い日も、朝から夕方まで働き通し。全然おしゃれじゃないビール腹のそのおじさんは、若い頃、美容師だったらしい。どうして美容師を続けなかったのか聞くと、指が太すぎて、ハサミがうまく握れなかったからあきらめたなんて、これまた本当か冗談か分からないような話。冗談ばかり言う明るく優しいそのおじさんは、市場でも人気者だった。ある時、そのおじさんのホームパーティに仲間でお邪魔させてもらった。おじさんの家は、中心街から車で30分くらいの郊外。おじさんが自分で建てたという明るく広い家で、おじさん家族と団らん。夕飯後は、おじさんの庭でキャンプファイヤー。火を囲んで、みんなで談笑した。決してそのおじさんは、一般的に「社会的地位の高い」と言われる職業についているわけでも、裕福だったわけでもないけれど、火の明かりに照らされ、大好きな奥さんや私たちと談笑する彼は、とても幸せそうだった。「幸せって何だろう」。父の価値観がどこかで私を縛っていた。自分が嫌がっていた価値観に縛られていたことに、真正面から気づかされ、唖然とした。

 私は留学していた頃、カナダが大好きになり、ずっとカナダに住んで働きたいと思うようになった。結局いろいろ模索した結果、自分のしたいこととのバランスで、日本に帰ることにしたのだけれど。ちょうど留学最後の年、進路に悩み葛藤している頃、新しく出会った香港系カナダ人の友達。彼女はトロント大学の大学院で環境について学び、将来は大好きな香港に帰って、教師になりたいと思っていた。半分カナダ人ではあるけれど、カナダ人としてのアイデンティティがないと話していて、そして都会っ子の彼女は、トロントと比べて田舎なオタワのことも嫌っていた。でも、自分がしたいことを選び、トロントからオタワに引っ越してきて、環境省で働いていた。「そのうち香港に帰る」。何とかカナダでの道を模索する私とは裏腹にそんなことを言っていた。「そう言っている人が残って、私みたいに何とか残りたいと言っている人が、結局帰るんだよ」。冗談半分、本気半分で言っていた言葉が、現実になった。今その友達は、自然豊かなオタワでの暮らしが気に入り、そして自分の仕事にやりがいをもって、新しい仲間と充実した日々を送っている。私の好きな言葉に、”Remember that sometimes not getting what you want is a wonderful stroke of luck.”(あなたが欲しいものを得られないということは、時としてすばらしい幸運のめぐり合わせであることを忘れないように)というのがある。その通りだと思った。

 最後にもう一人。学生の頃、お金はないけれど、旅行をすることが好きだった。ボーっとして浮世離れした似た者同士の親友と一緒に、お金を貯めては貧乏旅行に出かけていた。お金がないので、北海道で、初めてドキドキしながらユースホステルに泊まった時、同じくらいの歳の自然ガイドをする若者三人と仲良くなった。その三人で、小さな自然ガイドショップを経営していた。代表を務める寒いギャグがお得意の友人。彼は、サッカー一筋で、教育大学に入り、夢はサッカー部顧問だったらしい。ひょんなことから、ゼミの先生に導かれ、カヌーをするようになり、そして、アウトドアの道を進むことになったそう。そのユースホステルでヘルパーをしていた頃、そこのオーナーに背中を押され、友達二人と、北海道のアウトドアを紹介する会社を立ち上げ、もうそれから十数年。今は、メンバーの一人と結婚して、家庭を築き、家族経営で自然ガイドと雑貨のお店を開いている。彼らも、自分たちで家を建て、自然と共に暮らしている。かっこよくおしゃれな生活だけれど、お湯が出ない家で、全てを水でこなし、近くの銭湯に通う彼らの生活は、一方で不便でもある。

 結局、正しい道なんてない。それは、人それぞれ。自分が何がいいなと思うか、何を幸せに感じるか、そこから繋がっていくしかないのだと思う。
 私のように、どの道に進むのか分からず悶々としている人は、まず自分が「楽しいな」「好きだな」と思う方向に行ってみたらいいのではないだろうか。それも分からないということであれば、まず「ましだな」とか「嫌じゃないな」と思うところから始めてみたらいいと思う。出会いを大切に。いろんな出会いを通して、自分の大切にしているものが見えてくることもあると思うから。そして、いっぱい壁にぶつかってきた私から伝えたいことは、引き返すことも方向転換することもありだよということ。そして、全く問題がないところはないのだから、踏ん張れそうなら、石の上にも三年、とは言わず一年でもいいから、まず踏ん張ってみてほしい。意外に、またそこから広がる世界も、きっとあるから。

執筆:相談員・村上裕子(む-やん)

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