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平成19年8月1日号

更新日 平成25年7月4日ID番号 K1147印刷

コラム 「おとな世界と折り合えないとき、子どもは・・・」

 彼ら、学校との折り合いが、もうひとつよくない子どもたちのことを思い浮かべたり、考えたりしていると、思い出してしまうことがある。自分の学校時代のことである。とりわけ小学校の頃のこと。
 僕自身も学校とあまりいい関係だったとは言えないようだ。「ようだ」というのは、その頃のことは思い出せることが極めて少なく、やっと思い出しても、なんだかイヤな経験だったり、ひどく恥ずかしくてとても人には言えないようなものだったり、後悔の念がどっと襲ってきて、いまでもヒヤ汗が出そうになったりする。つまり、その頃の記憶にはロクなものがない。
 冒頭からシケた話で申し訳ない。その頃の僕は、たぶん「良い子」で、つまりおとなの気に入ってくれる自分を気に入ろうと努力していた。でも時々、それがうまく行かなくて、不機嫌になったり、イジけていたりもしたはずだ。「はずだ」というのは、まわりのおとな(とりわけ母親)は、そのころの僕のことを「気難しいヤツ」、「扱いにくいヤツ」とみていたから、そこから逆に推測してのことである。
 もちろん、自分としてはおとな世界のキマリゴトに合わせることに一生懸命だったし、そうやっている自分しか自分であるとは思えなくて、そこからはずれるのが、とてもこわかった。だから、「自分が自分だった」という記憶がない。思い出せることがないのは、そのせいかも知れない。あるいは、おとなに合わせようと努力するあまり、毎日、疲れてしまい、しばしば気を失っていた。つまり、学校にいる間は気絶をくりかえしていた。それで何も覚えていないのかも。そのひとつの証拠は、学校帰りのことはよく覚えている、ということ。
 子どもが自分のことを自分でわかるということは、かなり難しいようだ。とりわけ、少年時代の僕のように、おとなに映っている自分の姿に敏感になり、そこにしか自分がないように思っている子どもにとっては。
 だから、「自分は自分でいい」と、ノーテンキに思っているらしい子どもを見ると、正直なところうらやましくて、腹が立っていた(あっ!こんなことは執念深く覚えている)。 でも、たぶん、自分は自分だという瞬間は、当時の僕にも訪れていたはずだ。学校の廊下をダーッと走っている自分(気持ちいい!)。放課後、ご禁制のラムネ玉遊びをして、勝ちすぎて大量の玉を持てあます自分(やったー!)。夏休みの登校日、暑い、ダルイ、行くの嫌、と思っている自分。また、雨上がりの誰もいない校庭、ブランコをひとり占めして、ひっくり返りそうになるぐらい思い切り漕ぐとき。
 しかし、たいていの場合、その時その時の自分を、「それでいい」って、思えなかった。そんな時にもイジケル。そうできない自分が気にいらず、また、それを許してくれないらしいまわりの世界が理不尽に思えるから。
 子どもにとっては、他の子どもが住んでいる世界は、そしてそれ以上におとなの世界は「謎」なのではないか。「なんでそうなってんの?」と感じることを面白がり、時におびえ、そしてたいていの場合、従うことを要請される。要請にはお任せの気楽さもあるし、理不尽と感じることもある。が、かつての僕のように、合わせ過ぎていると感じていると、まわりのことをなにかと窮屈で不合理だと思いやすく、普段は「良い子」なのに、(おとなにしてみれば)妙なところで気難しく、ガンコで、譲らない、厄介なヤツになってしまう(急にその気になって、普段、失っていると感じているものを取り返そうとガンバッテしまうそんな時は、ためらった挙げ句のことだから、たいてい、ガンバル場所と時がズレていて、おとなのひんしゅくを買うだけなんだけど。だからさらに意地を張ってしまう。あーあ)。
 親たちが持てあますそんな僕を、何くれとなく、また、何を言うのでもなく、こちらの存在を認めてくれ、そんな視線を投げてくれるおとながいた。まわりの冷笑にイジケ、あるいは誰かのいじわるでメゲる僕。でも特に何かしてくれるわけじゃない。けれど気にしていてくれ、そのことがこちらにも伝わる、そんな存在。そんなおとながいてくれると、ホッとする。
 そんな人は、学校の中にも、たまたま行ったどこかのうちにも、滅多に会わない親戚の人の中にも、たしかにいた。僕は、そんな人たちに助けられ、育てられた。振り返ると、その人たちに共通するのは、正論を言わない、評価をしない、自分の経験を押しつけない、というところかな。
 君たちのまわりにも、そんな人って、いるんじゃないだろうか。

 
(オンブズパーソン:羽下大信)


愛知県豊田市など全国各地で「子ども(の権利)条例」を検討中

 2007年2月福岡県志免町、3月北海道芽室町、4月兵庫県宝塚市など、「子どもの権利条例」や「子ども条例」などの名称で、子どもの権利を保障する条例が最近できました。また、全国各地で同じような条例が検討されています。
 「子ども条例」とは、次世代を担うすべての子どもが幸せに暮らせる地域社会を実現するために、子どもの権利を保障し、子どもの最善の利益を図ることの重要性や、ともに社会をつくる一員としての子どもの意見の尊重などについて規定するとともに、子ども施策の推進に関する地方自治体の基本方針を定めることを目的とした条例で、既に2000年12月神奈川県川崎市、2003年9月岐阜県多治見市、2005年3月東京都目黒区などで制定されています。
 愛知県豊田市でも、条例制定を2005年2月に策定された次世代育成支援行動計画の重点事業に位置づけており、効率的かつ専門的に検討を進め、市議会に議案として提出する予定です。その検討の中で「子ども条例がなぜ必要なのか」を四つの視点で述べられています。

  1. 子どもの置かれている環境整備の第一次的役割を担う地方自治体が子ども条例を制定することにより、子どもの育ちを取り巻く環境の整備を、地域特性を踏まえながら早急かつ総合的に進め、子どもの「育つ権利」と「守られる権利」を保障することが必要である。
  2. 市民と子育て家庭に最も近い地方自治体が、法的拘束力のある子ども条例の制定を通じて、子育ての不安や負担を軽減できるような様々な子育て環境整備し、社会全体で支援していく体制づくりを推進していくことができる。
  3. 子どもの権利を始めとして、子どもたちやその取り巻く環境をどのようにとらえ、どのような「まなざし」や「かかわり」の下に子育ちを支えていくのかという課題を、市民・地域社会が共有し、自分たちの問題としてとらえていくことや子どもの育ちにすべての市民が主体的にかかわっていくことは、大切であるし、子ども条例の果たす役割でもある。
  4. 子ども条例は、地方自治体の中で子どもの権利保障や子育て・子育ち支援に関する政策を、すべて「子どもの視点」に立って、継続的・総合的・体系的に進めていく基盤となり得るものである。
     子ども(の権利)条例制定までには、大変な労力と熱意が必要ですが、制定後もこれをスタートとして、広く住民に啓発し理解していただくとともに、関係機関と連携を取りながら、実効性の高い条例として絶えず検証していくことが大切です。

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