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被災地派遣職員の体験記録

更新日 平成24年4月27日ID番号 K11167印刷

平成23年12月1日~平成24年3月31日 がれき撤去業務支援など

上下水道局  白石技師

全国の派遣職員で3月末に記念撮影

  平成23年12月から3月末日まで、女川町の職員として災害支援業務に従事しました。主な業務は瓦礫処理・家屋解体の受付、道路の維持補修といったものでした。瓦礫処理、家屋解体の受付は町内で甚大な被害を受けた家屋について、解体依頼の申請を受付し、解体作業の施工管理を行うものです。業務にあたり、土地勘がなく、被災地での活動ができるか不安でした。そのため、最初の頃は休みの日に女川町内を車で廻り、出来るだけ早く地理を覚えるように心がけました。 
  着任当初の業務状況は、中心市街地の瓦礫処理、家屋の解体がほぼ完了したところで、手つかずになっていた離島の解体作業が開始されていました。現在は、ようやく瓦礫処理・解体業務に見通しがつくようになっています。しかしながら、町内の道路は、冠水やひび割れした箇所が多く、道路排水などの機能回復には至ってない状態です。 
  女川町では職員の方々も住居を津波に流されており、中には家族を亡くし、本当に辛い状況下にある方もいました。それでも被災者のために親身になって業務に取り組む姿に非常に感銘を受けました。また、『遠いところから来てくれて、ありがとう』という被災者や職員の方々の感謝の言葉が励みになり、わずかでも力になりたいと思いました。 
  今回の震災による被害は非常に大きく、業務を通して完全な復興には時間がかかると実感しました。もし、今後同じような支援の機会があれば、協力させて頂きたいと思います。


平成23年12月1日~平成24年3月31日 公営住宅建設計画支援など

都市整備部  中郷技手

瓦がすべて落ちた伊能忠敬旧宅

 姉妹都市提携を結んでいる千葉県香取市で、12月から3月の4か月間、支援業務にあたりました。私の配属先は都市計画課建築班で、被災した公共施設の屋外排水の復旧や、亀裂が入り危険な状態の舗装復旧の設計、継続して使用できなくなった校舎の改築計画、被災者を受け入れるための公営住宅建設計画などの担当でした。
 私が携わった業務で深刻だったのが、液状化による被害です。その範囲は、約3,500ha(甲子園球場 約910個分)にも及んでいます。道路、ライフラインは仮復旧している状態にありましたが、住宅は大きく傾き、自宅に住むことができない状態の人がたくさんおられます。
 被災者のみなさんは、慣れない仮設住宅での生活が長くなり、ストレスに感じていることも多々あると思います。その中で印象的だったのが仮設住宅を担当する職員の姿でした。住民のみなさんの要望に細かく対応し、コミュニケーションをとることは、改めて大切な事だと感じました。
 震災から1年が経ち、支援に対するニーズも変化してくると思いますが、香取市で支援業務にあたった経験を生かし、現地の声を聞き取る橋渡し役として、これからの支援に繋げていけたらと思います。


7月28日(木)~11月30日(水) がれき撤去業務支援など

上下水道局  津田技手

     女川町で辞令を受ける職員

 8月から12月初旬の4か月間を土木技術員として女川町で支援業務を行いました。
 配属先は建設課土木係で、主な業務内容は、家屋解体及び瓦礫撤去業務、道路維持管理業務でした。家屋解体、瓦礫撤去業務は、解体の施工管理や解体依頼の申請受付を行い、道路維持管理は町内パトロールや住民からの要望を受け、修繕を行うといった業務です。常に住民の方々や施工業者とのやりとりを行う業務のため、土地勘を養い、方言に慣れるまでは非常に苦労しました。
  着任時は、女川町内の瓦礫撤去はほぼ完了しておりましたが、倒壊家屋が多く残っており、道路も通行はできるが、通常機能を取り戻すまでには至っていない状態でした。また、海岸部では地盤沈下の被害により、冠水が広範囲にわたり起こっていました。 ただ、12月頃には倒壊家屋の解体は市街地及び離島を除くとほぼ完了し、この4か月間で大きく進んでいることを実感しました。
 今回、さまざまな体験をする中で、非常に学ぶ部分が多い4か月間でした。特に女川町職員の献身的な業務に携わる姿は印象的でした。職員自身は自らも被災者という立場でありながら、生活が落ち着かない状況のなかで、住民の方々のさまざまな要望に細かく対応されていました。今回の震災の被害はとても大きく、復興に至るまでには長期間を要するため、これからの女川町に期待し、末長く関心を持ってみていきたいと思います。


平成23年7月11日(木)~8月31日(水) 建築業務支援

都市整備部 小野主査

    仮設住宅の入居説明会のようす

 宮城県女川町で約2ヶ月間の業務支援を行いました。
 配属先は、建設課建築係で、建設課の業務内容としては仮設住宅関係、瓦礫撤去、解体、道路、下水、水道、営繕と多岐に渡っていました。
 私が担当した業務は、主に「応急仮設住宅の入居準備」と「住宅の応急修理制度」関連です。
 仮説住宅の入居準備では、応募されている人の抽選準備や当選発表の準備、入居説明会の資料の作成、入居までの家電の納入、テレビの難視地区の仮申し込み、内部の間仕切り改修工事があり、入居説明会や入居後の不具合の対応などを他の職員さんとともに行いました。
 住宅の応急修理制度は、災害救助法に基づき自宅を応急的に修理していただくというものですが、申し込みをされても大工さんが不足していて、なかなか工事に至らないという状況が現在も続いていました。
 現地では、町長をはじめ職員の皆さんや町民の皆さんに笑顔や感謝の言葉をいただき、また皆さんの辛くても頑張る姿に逆に励まされることも多々ありました。
 そんな女川町の皆さんなら、きっと復興できるものと信じています。今後は後方支援の形になりますが、少しでも相手が望む支援が出来るように、現地と連絡をとって、次に派遣となる職員に伝えて行きたいと思います。


平成23年8月6日(土)~13日(土)ごみ収集支援業務

美化推進部 仲下課長、山本副主幹兼車両長、定本班長、嶋瀬運転士

   ごみ収集業務を支援する派遣職員

 今回は阪神支援チームとして、宝塚市・猪名川町とともに、南三陸町の一般廃棄物収集運搬業務を行いました。
 収集した一般廃棄物は、仮設住宅や避難所などの「ごみステーション」に集められた段ボール・ペットボトル・ビン・カンなどの資源ごみが主で、私たちはその中でも段ボールを担当しました。
 南三陸町内の「ごみステーション」は約100ヶ所ありましたが、1日約20ヶ所を1週間かけて回るというスケジュールで、午前中は地元のごみ収集業者と共に各ステーションを回り、午後からは段ボールやペットボトルを約50km先のリサイクルセンターへ搬送するといった毎日でした。
 大震災から5ヶ月が経過し、徐々にライフラインが整備されつつありますが、未だに水道が整備されていない地区もあり、大量のペットボトルや、支援物資を入れる段ボールなども大量にごみとして出ていました。
 被災地が、これらのごみ処理に困っていたことから今回の支援となりましたが、微力ながらも本来業務である収集運搬が復興の手助けとなり、被災地の皆さんの元気が少しでも出ればと願っています。


平成23年7月28日(木)~8月6日(土)

選挙管理委員会事務局太田局長 教育振興部学務課尾辻課長 

 福興市にきた水戸辺鹿子躍のメンバー

 業務内容は被災者の生活再建支援金及び東日本大震災災害義援金の窓口受け付けと申請書類の確認、申請内容のパソコン入力などでした。町職員によると現地では、震災により2カ所ある給食センター設備が現在も使えないため、 簡易給食を実施していること、既に仮設住宅の準備が出来て一時の混乱は減ってきているものの、今後、被災者の自立に向けてのアプローチのタイミングなどが難しいこと、長引く避難生活の中で時間の経過から被災の度合いで、町民間においても若干の意識のズレが出てくるなど困難な問題も出てきているとのことでした。
 私達の所感としては、まずこの国難に対する一助として、少しでも直接関われる機会をいただいたことに感謝するとともに、 震災後5ヶ月が経過し、ボランティアを含め、被災地に対する支援が息切れの傾向にあるそうですが、被災地復興が遅れれば遅れるほど、国民全体が脱力し厭世的になることによって更に国力が削がれるように思います。東北のみならず国全体の復興のため、不足しているのが財なのか人なのか、その両方なのか十分に情報収集の上、適時、適材適所な支援を実施する必要があると思いました。
 また、「西の明石、東の志津川」と称されるほどタコについては有名な土地で、今回、出来るだけ被災地の産物を購入しようとしましたが、漁港や市場をはじめ主要産業は基盤の立て直し途上で、海産物の購入は出来ませんでした。
 派遣期間中の7月31日に同町の救援物資受付場所となっているスーパーアリーナ横で町と地元企業、子どもたち、NPO、ボランティアなどで創る「福が興る市」と命名し福興のシンボルとなる市「福興市」が行われていました。被災者の皆さんもひととき、音楽ライブや踊りなどを鑑賞し心を休められたのではないでしょうか。
 今後の復興を期待し、購入支援などこれからも息の長い協力ができればと思います。


平成23年7月14日(木)~23日(土)

総合政策部片岸主査 教育振興部小林主査

    仮設住宅建設予定地を視察

 配属先は南三陸町役場の建設課でした。建設課には、町職員13名、中長期派遣職員3名、関西広域連合から8名と約半数が派遣職員でした。町の状況としては、被災前の人口17,666人のうち、亡くなられた方が約500人、行方不明者約650人、避難者2,536人、避難所は62箇所を開所していて、各区画の瓦礫撤去率は、38%程度とのことでした。
 活動内容は、1つは町役場の仮設庁舎や仮設支所などの基本設計と監理委託業務に係る発注業務です。 白紙に近い状況からスタートする中、臨時議会での議決、入札に係る委員会、業者への発注書送付などが非常にタイトなスケジュールでしたが、皆さんが事業の緊急性を理解していたので、期日までに業務完了することが出来ました。2点目は、応急仮設住宅に関することです。南三陸町の応急仮設住宅状況は、入居を希望者が1,931世帯で建設予定は2,157戸ですが、未だ723戸が建設中という状況でした。仮設住宅の建設は県の仕事ですが、場所の選定や地主の調整、造成など、町の仕事となる部分が多々ありました。また、町の仮設住宅2団地50戸の工事完了における精算業務を支援、また、工事施工問題点の解消や、2次災害を防ぐための応急危険度判定業務なども行ないました。全体的な所感として、震災後約4ヶ月半が経過する中、まだまだ瓦礫や被災建物があり、「道路が通行できた」、「水が出た」、「仮設住宅へ移れた」など1つひとつをクリアし、取りあえずの生活ができている状況で、本来の復興までには、まだまだ時間や費用、さまざまな知恵が必要だと思いました。一日でも早い復興を願い、川西市としてもできる限りの支援を続けられたらと思います。


平成23年6月23日(木)~7月1日(金)

保健センター 森山保健師

    支援活動の仲間たち

 石巻市は、宮城県で仙台市の次に人口が多く、保健師は40人程いますが、現在の業務量から考えると全く足りていませんでした。市役所は1年ほど前に、沿岸部から石巻駅前に移転していたため1m程の浸水ですみましたが、元の場所にあれば機能することは難しかったと思います。また市民病院は沿岸部に位置していたため、津波被害で使用できず、現在は集会所で代用している状況です。
 避難所は、指定外も含め多いところでは300人以上の方が現在も避難されていました。避難所によっては1世帯の空間が広くとれることから避難者は自由が保たれる半面、アルコールを多く飲み、夜間叫ぶ方などアルコール問題や日中も避難所から移動しない人たちの認知能力の低下などがみられました。仮設住宅は必要と言われている8,000戸に対し未だ1,000戸しか入居できていませんでした。建設・抽選が急ピッチで行われていますが、一方、急ぎすぎたためか仮設住宅の不具合が生じており、苦情を言えずに耐えている人もいました。秋以降も心のケア等で保健師派遣が必要になってくると思われます。
 活動を通じて、さまざまな人とお話をさせていただき、その中で「家族を亡くすなど私より辛い想いをしている人がいるから、愚痴をこぼすわけにはいかない」「今日まで泣いたことはなかった」など辛い想いをしながらも、強く前向きに生きようとされる姿に私自身勇気をいただき、愚痴を言わず、普段当たり前にできていることに感謝して生きたいと思いました。復興まではまだまだ時間がかかりますが、1日でも早く、辛い想いをされている人がいなくなることを祈っています。今回、家庭訪問で家族全員をみるということや、地区の健康問題やコミュニティづくりの人的資源等を探すなど貴重な経験をさせていただきました。この経験を活かし、川西市の防災計画を再度確認し、本年の保健師研究会でも課題として検討していこうと考えています。今後市民のお役に立てる保健師となるよう日々精進してまいります。


平成23年6月3日(金)~10日(金)避難所運営支援業務

山本副主幹兼車両長、岩畑美化業務課主査  

避難所での救援物資などの管理業務のようす

 私たちは、関西広域連合第12次隊として、南三陸町の避難所である志津川中学校体育館で避難所本部の運営と救援物資の管理業務を行いました。
 避難所では、77人(45世帯)が生活しており、電気、ガス(プロパンガス)は通常どおり供給されていましたが、水道は私たち派遣期間中にやっと復旧をした状態でした。しかし、もともと地下水を水道水として利用している地域だったため、津波の影響で地下水に海水が混じり飲料用には適さない状況でした。
 震災から3ヶ月が経過し、避難所の運営は自治会長さんを中心に各ボラティア団体などとの連携で役割分担がなされいましたが、日々さまざまな問題が起きている状況でした。
 今後の課題は、夏を迎えるにあたっての暑さ対策です。派遣期間中、避難所内の最高気温は29℃もあり、今後さらに気温の上昇が見込まれことから熱中症対策等が必要と感じました。
 また、衛生面では、ハエなどの害虫が発生に対し殺虫剤などが不足しており、冷蔵庫の不足により食品の衛生管理も難しくなってきていました。特に害虫類の発生は精神衛生上にも大きな問題となることから、早急な対応が必要と思われました。このような長い避難所生活でご苦労が絶えない状況であっても、皆さん力を合わせて辛抱強く頑張っておられます。避難所の状況は日々変化していきます。その時その時の避難者のニーズにあった継続的な支援の必要性を強く感じました。


平成23年5月6日(金)~15日(日) 仮設住宅関連業務支援

井上営繕課副主幹

   高台にある仮設役場 

 支援期間は、8日間でした。津波の被害を受けた地域とそうでない地域の差が大きく、改めて津波被害の大きさを感じました。業務としては、本来の町役場が津波で崩壊したため、高台に設置された仮設庁舎で建設課の職員と仮設住宅関係の事務を担当しました。建設課では通常業務に加え仮設住宅の業務が発生し、職員の負担が大きくなっていました。本来であれば別組織て対応することが望ましいのですが、人員的に困難ということで、このような支援活動が持つ意味は大きいと感じました。活動で特に印象的だったのは、町民の対応でした。ほとんどの人が家を流され、避難所等で大変な生活をしているにも関わらず「御苦労さま」、「ありがとう」と言う言葉をかけてくださり、仮設住宅入居後の生活支援等に関する要望なども行政側の事情を理解してくださる人が多かったことです。
 また、派遣の8日間は、前任から引き継ぎを受け、慣れてきた頃に後任に引き継ぐとため、本当に支援が出来たのか疑問に残りました。町の方にも今後の支援内容の要望をを聞いたところ、やはり長期的な職員派遣を希望されていました。派遣期間は、所管によって事情が変わりますが、長期的な期間の支援を望む所管があることも事実であり、またその支援のあり方についても日々変化していくと考えます。今後の支援活動についてはその旨を考慮した計画を関西広域連合の中で検討していただくことを望みます。最後に、支援活動としてはまだまだ続ける必要があるため、今自分にできることを引き続き行っていきたいと考えます。


4月22日(日)~5月1日(日) 市町業務支援として宮城県南三陸町へ派遣

杢田福祉推進室長・長寿・介護保険課田中主査

担当業務の皆さんと(杢田さん)

 南三陸町では、行政職員のうち2割以上の職員が死亡又は行方不明となり、町役場も津波で破壊され、町の業務がてんてこ舞いの状況でした。配置された保健福祉課では災害救助法全般の業務をしていて、私は被災者生活再建支援金と義援金の受付業務を担当しました。被災された方に基礎支援金を配布する業務で、毎日、公民館や小・中学校の避難場所に行き早朝から夕方まで受付業務を行った後、役場の仮庁舎に戻り申請書類のチェックやデータ入力などを行いました。同町の世帯数は約5300で、そのうちの8割が被害を受け約4000世帯が生活再建支援金の対象とのことで、毎日の事務処理量は大量でしたが、被災者の再建に役立っていると思うと精神的には大いに充実していました。
 職員さんともたくさんの話をしました。保健福祉課の担当係長のお母さんは、避難所で体調を崩し亡くなられたこと、津波に備え水門を閉めた職員は、高台に避難した際に足元にまで津波が迫り何時間もその場所で過ごしたこと、家族を探しに瓦礫の中を3時間かけて避難所まで行ったことなど。しかし、そんな大変な体験をしながらも町職員のみなさんが明るく頑張っておられる姿には本当に頭が下がる思いでした。 派遣期間中、避難所には、天皇陛下やオーストラリアの首相が来られたり、楽天イーグルスの野球教室なども開催され、避難されている人にとっては心温まる出来事だと感じましたが、避難所の玄関入ってすぐの場所に避難者が寝ているなど、四六時中人の目にさらされ寝泊りをしなければいけないなどの状況にはまだまだ厳しいものも感じました。街を覆っている瓦礫なども少しづつ整備はされていますが、街の復興には多くの時間がかかるため、こうした業務支援は川西市として積極的に続けていくべきだと思いました。瓦礫で街が消失した現実を見た衝撃は、一生忘れることはできません。本市を代表して被災者の役に立つことができたことは私の宝物になりました。


派遣先の職場の皆さんと(田中さん)

 私は業務支援として、比較的被害の少なかった高台の吉野沢配水地エリアの水道管仮復旧作業に従事しました。震災前の南三陸町の水道事業規模は給水世帯約5,000世帯で、普及率は95%でした。しかし、震災で全戸断水という壊滅的な状況でした。給水活動状況としては、日本水道協会と近隣市の給水車9台と川の水を浄水するフランス製の浄水キッドによる給水(2箇所)で行っていました。作業の内容は水道管の通水・洗管作業、各戸の宅内の通水確認でした。宅内の通水ができた世帯の人が「今日から風呂に入れる」「水汲みをしなくてすむ」と喜ばれる姿を見て、震災から今日までのご苦労がわかりました。派遣期間の1週間で宅内通水可能世帯数は50世帯とごく僅かで、今も大多数は断水状態です。また、仮復旧可能エリアの全面通水も今後数か月かかる見込みです。最終日に水道事業所の係長は「これから暑くなり、水道の使用量が増える。給水車による給水量や回数が多くなるので、出来れば日本水道協会以外でも給水車による応援給水をお願いしたい」と言っておられました。私もできるだけ多くの自治体などが結集し、継続した支援活動が重要だと感じました。また、本市が送った飲料水「きんたくんの力水」のラベルとネーミングがかわいいと大変好評で、喜ばれていたことが嬉しかったです。


4月24日(日)~30日(土) 宮城県仙台市若林地区へ派遣 

保健センター 柳川副主幹(保健師)、北村主任、坂本保健師

     88歳のご老人の血圧測定のようす                    
       被災した家庭を訪問するようす                                                  

 若林区内の避難所は9カ所あり、約1200人の被災者が生活されていました。私たちの活動内容としては、避難所での健康相談(血圧測定や内服状況の確認など)をはじめ、、慢性疾患者(高血圧症・糖尿病など)の管理や、避難所の感染予防のための衛生管理、被災者の心のケアで、感染症の専門医師・薬剤師や労災病院チーム、心のケアチーム(精神科医など)と連携を取りながら行いました。また、被災地の家庭訪問活動でも、被災者の健康状況や実態の把握を行いました。
 この度の活動を通じて学んだことは、よく「備えあれば、憂いなし」と言いますが、想定を超えた自然災害はいつでも起こりうるということで、その対応のためには普段からの取り組み体制がとても重要だということです。そして、どのようなことが人生の中で起ころうとも、人は生きていかなければならないといった、人間の内なる「心の備え」です。
 家庭訪問先で、お会いした88歳のご老人(写真左)が、「おらは、黒い波の中泳いで逃げたんだ~。おらの家の2階にたどりついて、そこで震えて1夜を過ごしたんだ。もう死ぬかと思った。な~んもかんも失った。だども、自衛隊にタンカーで助けてもらった。避難所でも全国の皆さんから沢山の支援物資をいただき嬉しかった。このご恩は生涯忘れねえ・・・・。あっちさ帰ったらくれぐれも皆さんによろしく伝えてくだされ」と笑顔で話されました。 人生の後半で、悲惨な目に遭いながらも、感謝と笑顔を忘れないご老人の姿勢に本当に感動しました。
 私たちも内なる「心の備え」として、感謝と笑顔を大切に生きることを実践し伝えていきたいと思いました。


4月9日(土)~12日(火) 宮城県石巻市へ派遣 

市立川西病院 大槻副薬剤長 

 調薬業務に従事した副薬剤長の大槻さん
   中学校内の仮設診療所(保健室)

 派遣先の石巻中学校に設けられた診療所(保健室)で、日本看護協会や兵庫県医師会のスタッフでチームを組み、薬剤師業務を行いました。この中学校では約200名の被災者の皆さんが生活されていて、放送で呼びかけて診察を行い、診療時間以外は教室や体育館を巡回し皆さんの健康状態をチェックしたり、相談を聞きました。
 最大級と言われた余震で宿泊先が断水したものの、活動拠点の近隣に宿泊できたため、支援活動もスムーズにできました。薬の在庫管理も含めて、医師・看護師と患者さんのやりとりを聞きながら、適した薬をすぐ処方するように努めました。


4月8日(金)~14日(木) 岩手県大槌町へ派遣 

上下水道局 富永局長・武田主幹・米田課長補佐・辻井浄水課員

  給水タンク車での給水活動

 活動場所は、岩手県大槌町。活動中も余震が頻発しましたが、給水を待ち望む被災者に出来る限りの給水をしました。災害復興プランが確立できていない中で、精一杯の活動を成しとげましたが、災害時においては、命令系統の組織づくりを早い時期に確立することが、より活動の範囲を広げることになると切に感じました。
 給水活動では、関西弁が記憶に残るのか「またおっちゃん来てくれたんや」と子どもたちに言われ、気持ちが和みました。津波による被害の大きさを目の当たりにし、今後もできる限りの支援を行っていければと思います。


4月3日(日)~7日(木) 福島県田村市へ派遣

市立川西病院 清水副主幹(診療放射線技師)

    スクリーニングを実施する清水さん

 派遣先の田村市総合体育館は、福島第1原子力発電所から約38キロメートルの場所にありました。
 5日間、診療放射線技師として、地域住民の放射線被曝の相談や表面汚染を測定するスクリーニング業務を行いました。スクリーニングとは、「表面汚染測定器」を使って人に放射性物質が付着しているかを調べる作業で、基準値以上がカウントされた場合は、除染(身体表面や衣服に付着した放射性物質を取り除くこと)を行います。
 スクリーニングや被曝相談の前は不安そうな表情だった人たちも、専門用語を使わず話しかけながら行うことで笑顔を取り戻してくれました。すれ違う人たちも「遠い所から来てくれてありがとう」と何度も何度も声をかけていただき嬉しかったです。私が所属する兵庫県放射線技師会では、緊急被曝医療初期対応研修会があり、そこでの経験が役に立ち、専門職としての務めを果たすことができて良かったです。ちなみに5日間滞在中の私の測定値は基準値以下でした。


4月2日(土)~10日(日) 宮城県南三陸町へ派遣

中央北整備部 林谷主査・市民生活部 西川主査

   「幸運のウイスキー」を市長に報告

 SOSをグラウンドに描いたことで有名になった「平成の森運動公園」に設けられた避難所での運営支援が業務でした。避難所では、自治会長さんを中心に既に連携体制が出来ていたため、私たちは避難所の要望を県に報告する中継役を務めました。 
 要望に対して県本部の対応が早かったため、皆さんに喜ばれました。避難所はライフラインがすべて止まり、トイレが大変でした。ため池から水を組み大容器に溜めて、トイレ使用時に使います。紙は流せないのでゴミ袋に入れました。
 最初は住民の皆さんも私たちに遠慮していましたが、とけ込んでいくと色々と頼んでくれるようになり役に立つことができたと喜べました。帰る時には、お土産にとウイスキーをいただきました。「震災で家(店)も家財も全て流されたけど、このウイスキーだけは奇跡的に残ったんです。“津波に負けないウイスキー”と名付けたのでお守りにしてください」とのことでした。
 避難所の状況は毎日刻々と変化します。支援する側の都合ではなく、被災者の皆さんの実情や要望を把握し、スピーディに対応できればと思いました。町職員の人からは、「多くの職員が亡くなっており、本来業務が機能していないので各部門の応援が欲しい」と言われました。
 避難所の皆さんも「泣くのはふとんに入ってから、共同生活では一切我がままを言わない」とおっしゃっていて本当に頭が下がる思いでした。


4月1日(金)~8日(金) 宮城県多賀城市へ派遣

上下水道局 白澤課長・岡崎副主幹・津田下水道技術課員

   市内各地の下水道管調査のようす

 東松島市に派遣される予定が瓦礫(がれき)の撤去が進まず、急遽、仙台市多賀城市へ行きました。
崩壊家屋はありませんでした。市域の3分の1が津波の被害で浸水していました。業務内容は下水道管の一時調査で、多賀城市職員が震災直後に調査していた箇所を詳細にチェックするため3人で目視調査をし、修理箇所などを報告書にまとめました。調査延長は約7キロメートル弱でした。
 今回の震災は地震より津波の被害がかなり大きいと感じました。現地の職員さんは、「人口63,000人都市なので職員数も多くなく、今は被害に対する苦情処理で手がいっぱいで、各部門の調査に全く手が付けられない」と話していました。我々もその職員の状況を目の当たりにして、今後も少しでも役に立てないかと思いました。


3月28日(月)~4月4日(月) 宮城県南三陸町へ派遣

総務部 森課長・市民生活部 渋野所長補佐

    市長らに見送られた出発式

 南三陸町は、津波被害による家屋の全壊など、街が崩壊的な状況でした。
財産はもちろん日常の生活品などすべてをなくした被災者の皆さんの日常生活を、少しでも助けることが出来ればと業務に取り組みました。特に被災者の皆さんと積極的にコミュニケーションを図り、我々を受け入れてもらうことで被災者の皆さんのお役に立てるものだと、どんどん言葉をかけ、支援してほしいことを聞いてまわりました。
 少しずつですが被災者の皆さんも心を開いてくださり、信頼関係ができたように感じました。支援活動で感じたことは、本部と各避難所との連絡体制が確立していないため、避難所生活が長期化した場合、避難所の格差が生まれ被災者の不満が発生してくるのではないかということです。これについてはミーティングなどで報告を行いました。
 今回、被災地での活動支援を通して、改めて人と人とのつながりの大切さや相手を思いやる大切さを考える機会となりました。


3月18日(金) 山形県川西町へ救援物資を届けに

総務部河本副主幹・市民生活部渋野所長補佐

   避難所視察のようす

 今回の派遣は震災1週間後で原発や余震の不安も大きかった時期でした。山形県東置賜郡川西町は、直接の被災地にはあたらないという事でしたが、 地震や原発の問題がある上、さらに積雪もまだ1.5mとクルマの高さほど残っていて気温も氷点下となる大変な状況でした。
 私たちは午前8時ごろに川西町に到着しましたが、高速を降りてから川西町に向かう道中、ほとんどのガソリンスタンドが1キロ以上給油を待つ列がつながっていて、ガソリン不足を痛切に感じました。さらに、川西町は町内の3箇所の施設を福島県からの被災者を受け入れる避難所としており、たくさんの被災者が避難していました。避難所内にあるテレビやパソコンには、常に避難されてきた方が情報を得る為に並んでいて、被災者の不安の大きさを感じました。
 まだまだ大変な状況は続くと思いますが、川西町を少しでも支援するためにこの活動に参加が出来て良かったです。 


3月14日(月)緊急消防援助隊(阪神ブロック)第二次派遣部隊

消防本部 総務課 桂主査

  懸命に捜索活動を行う緊急消防援助隊員

 兵庫県緊急消防援助隊第2次隊の隊長として宮城県に派遣されました。15日早朝には、野営地である石巻市総合運動公園に到着し、いつでも出動できる状況で待機していました。
 当初は「若い隊員も多かったのでPTSDにはならないだろうか?どんな活動なのか?」といった心配をしていました。しかし、宮城県内を走行していても倒壊した家屋が数棟あるものの、津波の痕跡は全く見ることが無い状態で2日間が経過したため、取越し苦労であったのかと思っていました。
 そんな甘い気持ちが一気に吹き飛んだのが3日目以降でした。南三陸町志津川地区及び波伝谷地区での行方不明者捜索活動です。中でも波伝谷地区は、困難を極める活動現場になりました。現場に到着するだけで、片道約4キロを数時間かけ、どろどろになって徒歩で移動、着けば休憩もなく朝から夕方まで瓦礫(がれき)をめくっては行方不明者がいないかを捜索しました。「この高さまで津波が押し寄せて村を全部持っていった」と、地元の方が言っておられました。村人が言うこの高さとは崖の上で、そこに車が何台も引っかかっているのです。覚悟して行ったつもりでしたが、津波の恐ろしさ、自然の猛威を目の当たりにし、言葉が出なくなってしまいました。活動中、家族で楽しそうに写っている写真を見つけると、どうかご無事で生きておられることと祈りながら活動を実施しました。 


3月11日(金)緊急消防援助隊(阪神ブロック)第一次派遣部隊

南消防署 岡本副主幹

    津波が及ぼした被害状況

 東日本大震災が発生した、3月11日(金)午後10時に兵庫県緊急消防援助隊(67隊 269名)として出発しました。 被災地の情報が入り乱れ、派遣先が次々と変更になり、13日(日)に初めて活動した宮城県山元町で、町職員に被害状況を聞いたところ、海岸から1キロメートル以内には建物が既に無く、1.5キロメートルまで広げると鉄筋コンクリート造の建物と新築の建物が残っている程度とのことで壊滅的な状況でした。
 また、多くの住民の安否が不明で、未だ海水が引いていないとのことでした。活動するために高瀬地区へ向かうと、想像をはるかに超えた津波の被害を目の当たりにして言葉を失いました。
 しかし、「阪神大震災の際に支援してくださったお礼に」と、歯を食い縛り活動を実施しましたが、数時間して、また活動拠点移動の指示が出ました。行き先は同県の手付かず状態となっていた南三陸町でした。ここは山元町とは、地形がまったく違い、町全体が山に囲まれており一部高台にある住宅以外はすべて崩壊し、どこが河川か判断できないぐらいの惨状でした。役場と消防署の朽ち果てた姿をみて職員が地震の後の対策に奔走されている最中、津波に襲われ多くの職員および住民の方々が犠牲になられたかと思うと目頭が熱くなり手を合わせていると涙が止まりませんでした。限られた派遣期間の中で、精一杯取り組みましたが、どちらの地区においても十分な活動が出来なかったことが心残りです。


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